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おかねさんが何時も眺めた長崎風景

竹田生まれ竹田育ちのおかねさんは
長崎でわずか二ヶ月だったが、フランスから来た外人との同棲生活をしました。
やがて破局最後は女性が悲しむ様になっているのでしょうかね。竹田生まれのおかねさんがフランス海軍士官ピエル・ロチと同棲したのは明治18年の7月と8月でした。ピエル・ロチは長崎の仕事を済ませた後すぐに帰国しました。その後15年、再び日本に来ました。明治33年のことです。その2回目はピエル・ロチはおかねさんとどうしてか会いませんでした。一方、おかねさんはピエル・ロチと15年ぶりの再会とあり大変楽しみにしていました。ところがピエル・ロチはおかねさんと会うのを断ったのです。これはショック、おかねさんはただ呆然、気の抜けた状態が続きました。・・・・それはわかります、女ごころですよ。長い間一途に待ったと思います。15年前、ロチが帰国する時、また必ず来るとか適当なことを言ったと思います。

しかし、まもなく、おかねさんは気を取り戻すなり即ふるさと竹田へ帰ってきました。
竹田では小さい頃はありました家も西南の役の時焼かれてしまい竹田に帰っても住む所がありませんでした。おかねさんは仕方がありません、ある洞窟に住む様になりました。その洞窟は烏岳(現在の大正公園の南側)にあり、夜はとても寂しい所でまわりには墓地がいっぱいあるところです。

おかねさんは武家育ち侍の家庭、教養もあればいろんな習事などしていました。こんな女性でありながら外人と同棲する様になった経緯がちょっとわからないです。。
ピエル・ロチというフランスの陸軍士官はフランス文学者だったと言いますがおかねさんが純粋に愛する価値があった相手だったのだろうか。 なぜ、立派な教養のある武士の妻だったのになぜ外人の妾なんかに・・・・私はこの疑問に知りたいという好奇心が湧いてきました。
その結果、
ピエル・ロチはおかねさんを長崎にいる間の単なる性の吐け口、文学者だから小説のネタ探し程度位にしか思っていなかったようです。しかしおかねさんはそうは思っていなかったということでした。そしてのちに悲劇のヒロインとされていったのです。おかねさんは気丈な侍の妻、一時は離れはしても何時かは愛するロチと一緒に暮らせると思っていました。でも結果は遊び相手にされたおかねさん、可愛そうです。この世の中、こんなケースが多く、昔も今も変わりません。ピエル・ロチという男には姉さんも妹もいなかったんでしょうかね、もし、いたなら、竹田出身のおかねさんをもっと大事にしたと思うのです。男である前に人であれば女を泣かせること決して出来ないはず、世の中の男にはこの種の人がいて、まだまだだめですね。
ことわざに人の振り見てわが身を直せとある、人であったらピエル・ロチのような男にはなりたくありません、フランスでは紳士なんでしょう。日本の一般家庭で有れば、一途にかぁちゃん孝行をして当たり前、社会人の一員と思えば当然。そんな社会じゃないとだめだと思いますよ。何が民主主義の進んだ、フランスの文学者・陸軍士官ですかね。ちっとも偉いとは思いませんがね。お金も女も何もかもほしいのが人間。ですが人の道だけはずしたくありませんね。

          第1回目
歌劇「蝶々婦人」のモデルは竹田の人

洞窟から見える竹田市街

第2回へ

このころは江戸時代から明治に変わった激動の時期でした、一人の武家育ちの女がたくましく生きていくか転落していくのかこのわかれ道の時期だとおもいます。江戸時代がおわり、明治時代に変わった混乱期です。これまでは侍の妻として安定していた武家の女性たち、でも大きな時代の変わりに直面した人々でした。
おかねさんの場合は残念ながら、おちぶれ組でした。住み慣れた竹田の山や川、おかねは生活のために竹田から長崎を選択しました。そして外人と同棲。おかねさんのこのとった道を思うと悲痛なものを感じます。しかしその結果は再び竹田に帰ることになりました。竹田に帰ったおかねさん、死ぬまで竹田を動かず孤独な洞窟生活をしました。辛かったと思う。洞窟生活では若くして狂女と言われるようになり人からもだんだん避けられた生活となりました。思えば惨めである。
あの有名な、歌劇「蝶々婦人」のストリーは一応フィクションとされていますが蝶々婦人のストリーとおねさんの長崎生活が一致しており、蝶々婦人のモデルは竹田の生まれ竹田の育ちおかねさんだったのです。物語がよく似ているのは当たり前のことです。この物語はもともと次のようなことです。
小説家ピエル・ロチはおかねさんと同棲した生活をもとに1887年小説「お菊さん」を発表しました。1897年ジョン・ルゥサァ・ロングアメリカが小説お蝶々婦人を発表しましたがこの小説はお菊さんをまねて作ったものです。
さらにこの蝶々婦人をイギリスのヴット・ペラスコが戯曲化、この戯曲化した芝居をロンドンで観た人イタリアの歌劇作家ジャコモ・プッチィニーがです、長くなりここでひとまず区切ります。とにかく世界の作家たちがなぜか騒ぐ。外国の方はよっぽどお菊さんがいいらしいのですね。このお菊さんからスタートした話はいよいよ大詰めになってきます。イタリアの有名な歌劇作家の目に入ったこのストリーはその後同じイタリアの文壇ジュビッペ・ジァコオザとジァナリストのルィジ・イリイカの協力で蝶々婦人の曲が作られ、ここに永遠不滅 「歌劇蝶々婦人」の誕生となりました。この世界的な名声を今にもなお保持しているこの作品のモデルは竹田のおかねさんなのです。 


参考書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネット通信より引用

ピエール・ロチと長崎
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 県立長崎図書館には『お菊さん』をはじめ、ピエール・ロチの多くの著書が所蔵されている。その殆どが郷土の研究者中村重嘉氏(1910〜1944)が収集したものを、昭和29年中村慶子氏により寄贈されたものである。ロチの作品には、明治の長崎の風景が生き生きと描写されており、また、ロチの日本の文化と自然をみつめる目には、近代化の中で失われて行くものへの哀感があり、人生への虚無感と共に興味深い。
 ロチはフランスの自然主義作家で、本名をルイス・マリー・ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie Julien Viaud)といい、ペンネームのロチはマオリ語でばらを意味するという。1850年1月14日フランス西南部のロッシュフォール市に生まれた。17才で海軍兵学校に進み、その後60才で退役するまで海軍と共に歩み、20年近く海上生活を送った。1891年にアカデミー・フランセーズ(フランス学士院)会員となり、1923年6月10日73才で死去した。国葬がいとなまれ、遺言により柩に鶴嘴の数撃が加えられ、オレロン島に埋葬された。 ロチは1885年7月8日から8月12日まで長崎に滞在した。(ロチの『お菊さん』では7月10日から9月18日の日付で記述されている)

巡洋艦トリヨンファーン号の修理のため来崎したもので、ロチがお菊さんと一緒に生活した家(長崎市十人町8−2)は、第二次大戦中の建物疎開で取りこわされたという。昭和46年3月、「ピエール・ロチ寓居の地」の石碑が建てられた。長崎市博物館には末永胤生筆のロチ寓居復元図が所蔵されている。『ロチの日本日記』にその写真版が掲載されている。




また、ロチが上陸して最初に立ち寄った茶屋の「百花園」(Jardin−des−Fleurs)は『長崎南蛮唐紅毛史蹟』に、ロチやお菊さんの写真と共に掲載されている。最近、岩永弘氏が『長崎人』(第4号)に昭和初期の百花園の見取り図を
幼い頃の記憶を基に記している。お菊さんは月20ピアストル(約40円)でロチに売られた「現地妻」であり、二人の間には深い愛情はなかった。ロチにとっては、お菊さんもまた、日本の風景や文化の一つに過ぎなかったし、お菊さんもロチに対して、後にジョン・ルーサー・ロングによって著された『お蝶夫人』のような熱烈な恋心を持ち得なかった。ロチは7月29日(『お菊さん』では9月11日)、「お菊さんとイブ」(本名ではお兼さんと、ピエール)をともなって上野写真館で記念写真を撮った。その写真は昭和28年の西日本新聞や、上野一郎氏・船岡末利氏によって紹介されている。小説『お菊さん』は、1887年12月より『フィガロ』紙に連載され、1893年刊行された。ロチは、1900年(明治33年)12月8日、ルドウタブル号の乗員として再び来崎し、4月1日まで滞在した。。この時の模様を基礎に、『お梅が三度目の春』が著された。6月28日、8月26日、10月10日にも長崎に寄港した。来航時の軍艦は、鎮西日報や英字新聞でも確認できる。


      2回目はおかねさんの生きた時代背景をお送りします。

竹田市による洞窟横の立て看板

おかねさんの住んだ洞窟
   2005年9月撮影